「タノ■カミ」と切ると思います。
「神」に限らず、助詞の「の」が入ると、切るのが原則と考えていいと思います。
ただその中で、例外的に「の」も含めて1語となっているもの、「かみのけ」「てのひら」「いきのね」「うわのそら」「みのほど」「みのまわり」「やまのて」「たまのこし」「てのうち」「にのうで」…などはひと続きに書きます。
妻の意味の「やまのかみ」もそういう言葉なんですね。
「山」とか「神」とかが、もともとの意味を離れて、具体性を失っている、あるいはそのセットで独自の意味を持っていて、その形で頻繁に使われる、という感じでしょうか。
それら以外の、原則的な使い方では、具体的な「山」を管轄している神さまは「ヤマノ■カミ」、海の神さまは「ウミノ■カミ」、台所の神さまは「カマドノ■カミ」、田んぼの神さまは「タノ■カミ」です。
「月の神」「酒の神」「火伏の神」「縁結びの神」…みな同じです。
それから、「辞書の見出し語になっている」というのは、ある場合には目安になるのですが、どういう場合にどんな目安になるのかは、注意が必要です。
辞書の見出し語であっても、点字でマスあけが必要な言葉、不要な言葉、両方あります。
辞書によって少し違いますが、たとえば、「食虫植物」「一触即発」「無我夢中」「紆余曲折」「ベーキングパウダー」なども見出し語になっていますが、これらは点字では切りますね。
『広辞苑』『大辞林』などは多少百科事典的な要素も入っている辞書なので、たとえば「鳥羽伏見の戦い」「後白河天皇」なんていうのも見出し語になっていますが、点字では、もちろん切ります。
もう少し微妙な例で、「虫の息」「籠の鳥」なども、見出し語であり、もしかして1語かな?という感じもしますが、「ナビ」は切ると言っています。
つまり、見出し語になっているから、点字でひと続きに書く、とは言えないんですね。
では、どういうときに目安になるかというと、たとえば、「整形外科」という言葉を「整形」と「外科」に分けていいかどうか、と考えたとき、辞書で「整形」も「外科」もそれぞれ見出しになっていれば、なるほどこれらは自立した意味があるんだ、とわかります。
一方「放射線科」はどうかな、と思って辞書を引くと、「放射」は見出し語ですが「線科」はありません。
つまり「線科」は意味のまとまりがなく、「放射」と「線科」に分けることはできないかも、と考えられます。
そういうときには目安になります。
尤も、世の中にある言葉が全部辞書に載っているわけでもないので、見出し語になっているからこの言葉は存在する、とは言えても、見出し語でないから存在しない、とは言えないんですよね。
ですからあくまでも「目安」です。
さらに、「海水浴場」のように、「海水」も「浴場」も見出し語になっていて、意味のまとまりはあるけれど、「浴場」は風呂場のことで、この2つをつなげたときに、あれ?私が思い描いている「海水浴場」とは意味が違うぞ、ということになり、切るわけにはいかなくなります。
そんなわけで、見出し語かどうかを単純に当てはめられないこともありますね。
お尋ねの件から話がずれました。申し訳ありません。