何が複合語か、というのは、なかなか難しいですね。
結論から言えば、「顔出す」「声出す」「人生終わる」は、今のところ複合語ではありません。
「顔」「声」という名詞と「出す」という動詞、「人生」という名詞と「終わる」という動詞が、複合せずに続いているだけ、ということでしょう。
「顔を出す」「声を出す」の「を」、「人生が終わる」の「が」が省略された言い方で、友だち同士などの内輪の会話では多用されますが、公式・正式な文書などでは使われない形だと思います。
「雨降る」「飯食う」「風呂入る」「金出せ」なども、非公式な場では使いますが、正式な言い方ではなく、複合語とは言えません。
では、名詞+動詞は複合語にならないか、というと、そんなことはなく、「苔むす」「年取る」「鞭打つ」「指さす」「夢見る」などは、もともとは「苔がむす」「年を取る」「鞭を打つ」「指を(で?)さす」「夢を見る」という、名詞+助詞+動詞だったものが、長年言い慣わされているうちに助詞が抜け、既に複合語の扱いを受けています。
ここで、先日の「辞書の見出し語」という話が出てきますが、これらの言葉は辞書でも見出し語(動詞)になっています。
動詞としての市民権を得ている、ということなのでしょう。
これらは点字でも続けて書きます。
因みに、「風呂入る」「金出せ」などは見出し語になっていません。
尤も、見出し語としての有無がそのまま点字の切れ続きの判断に直結するわけでもないところが悩ましいのですが、でも参考にはなります。
複合の度合がもっと進むと、「こころざす」「こころみる」などのように、もとは「心」と「指す」「見る」だったものが、どんどん緊密にくっついて、ついには「志す」「試みる」と、ひとつの漢字で表すようになってしまったんですね。
もう複合動詞とも言えない、2つの言葉だったことも忘れ去られたような、完全な1語になったという証しです。
言葉の進化でしょうか。
「顔出す」「声出す」「人生終わる」は、まだまだそういう段階ではありません。(将来的にも複合語にならない可能性は大きいと思います)
ただ、「顔出し」という名詞形になると、これは複合語と認められているようです。
これは「顔出す」の名詞化ではなく、「顔」と「出し(「出す」の名詞形)」の複合ということなんでしょうね。
「雨降り」「墓参り」「山歩き」なども同じです。
「声出し」の使用頻度は「顔出し」ほど多くないと思いますが、それでも「声出し確認」「声出しが足りない」などと使いますから、複合名詞なのでしょう。
「人生終わり」は複合名詞とは言えないと思います。