「イコール」と読んで大丈夫なケースだとは思います。
ただ、私だったら棒線を使ってしまうかもしれない、と思いました。
墨字で「=」と書いてあった場合、目で読む者は、多分そこを「音」にしてはいないと思います。
意味だけ了解して、「音」としては飛ばして読んでいるのではないでしょうか?
そこに「イコール」という「音」を入れると、結構不自然になってしまうことがあると思うんです。
たとえば、「私=点訳者の立場からすると…」みたいなとき、ここは「イコール」という「音」にしたくない。
「私」は場合によっては「点訳者」かもしれませんが、もちろん「点訳者」は「私」とは言えないし、厳密に言えばこれは「イコール」ではないのでしょう。
棒線というのは、ずっと広い範囲の関係に使う記号なので、墨字の「=」の使用例の中で、かなり曖昧な関係を表すケースを伝えるにはいいような気がするんです。
そして、これも記号なので、「音」にしなくていいんだと思います。(音声で聞かれるかたには「ぼうせん」という「音」になるのかもしれませんが、それにしても「言葉」にはならないと思います)
でも反面、棒線では関係が曖昧すぎて意味が伝わりにくい、ということもあります。
ですから、その「=」が、どのくらいの厳密性をもって使われているのかによると思います。
もちろん、文中に使われている時点で、数学記号としての厳密性を備えているわけではないにしても、「=」の左側と右側は等しい、というような「印象」は引きずっている気がします。
「1ドル=360円の時代」とかなら「イコール」と読んでいいと思いますし、「私の子ども時代=まだ日本が貧しかった頃」などというときに「イコール」と読んでしまうのはちょっとためらわれます。これは棒線にしたい。
私が個人的にいつも思っているのは、「すなわち」と読んではいけないだろうか、ということです。
どこを見てもそう読んでいいとは書いてないので、実行する勇気はないんですが、日本語の文章の中に「イコール」と挿入されることの違和感、それによって壊される雰囲気が、ずいぶん救われるような気がしますし、「イコール」と言ってしまうよりはやや広い、曖昧性を含んだ範囲をカバーできるような気がしているんですが、単なる気のせいかもしれません。
あるいは、「すなわち」と書いてしまうと、まるで原本に「すなわち」と書いてあるように読めてしまう、そうじゃなくて、原本には「=」の記号が使ってあるんだ、ということを伝えるためには、敢えて「イコール」と読んだほうがいい、ということもあるのかもしれませんね。
みなさん、どうお考えでしょう?